SSブログ

真田丸38話 真田昌幸の最後 [ドラマ]

大坂の陣で真田信繁が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。
過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は非常に昌幸を恐れていたのか、
震えるほどだったと言われています。
nasayuki.jpg
真田昌幸.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E...から引用
配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、
家康はホッとしたようです
信繁自身、この時期まで名を轟かせるほど有名な戦はしていません。今まではすべて父、昌幸での戦での話でした。関が原の合戦で処刑しようとした真田父子を助けたのにも関わらず、恩を仇で返され怒りで打ち震えたからだというものだったそうですが、これらのやりとりは「仰応貫禄」という資料記録に明記されているとのことです。徳川寄りに編集された三河物語ですら、過去家康が真田昌幸に散々に打ち負かされたことを正直にそのまま書いているほどですから、家康は昌幸に本当に嫌な思い出しかなかったんだと思われます。

九度山時代は経済的に困窮していたようです、家康からの赦免を夢見たままこの世を去っていきます。
打倒家康を掲げながら、慣れない土地に流された昌幸は身も心も弱ってしまったのか、
赦免を何度も願い出ています。
九度山時代は自身の借金もあって経済的に困窮し、送金を願い出たり赦免を乞うなど昌幸にとって厳しい時だったようです。

九度山時代に幸村(信繁)のいずれ豊臣方と徳川方で大決戦が再び起こると予言したとも言われています
そのときにどういう戦術を取るべきかなどを死の直前に語ったとも言われています。
故郷の上田にいる信幸に使いの者を出して手紙を何度か出していますが、自分の病気が長引いていることや田舎の生活で不自由しているので推察して欲しいとか、何分疲れたなど、弱々しい文言ばかりが並んでいます。

また、息子の信之に会いたいとも述べていますが、それが叶わいそうにないと無念の気持ちを手紙に書いています。病気が治れば信之に会いたいともありましたが、残念ながら赦免も息子への対面も果たせぬまま1611年4月に65歳で死去。
九度山配流から11年が経過していました。きっともうひと暴れしたかったんでしょうね。
徳川を倒すことをずっと
夢見ていたんでしょう。この時期、真田親子の資料はあまり残ってないないとも言われています。
それほど困窮、そして昔の人(過去の人)になっていったんでしょうね昌幸、信繁は。








スポンサーリンク






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。