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真田丸秀頼の父親は? [ドラマ]

大の女好きである秀吉の最大の不幸は、子供に恵まれなかったことと
徳川家を滅ぼさなかったこと
片っ端から色んな女に手を付けまくったのに、秀吉を父とする子を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人です。
歴史学者の服部英雄九大名誉教授は2012年刊行した『河原ノ者・非人・秀吉』で、
長男の鶴松はもちろんのこと、次男の秀頼の父親が秀吉ではないと断言しているようです
こんな歴史の秘密がつい最近まで封印されていたのです。

最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロということです
正確な数はともかくとして、いろんな側室がいながら秀吉は一人の子も授からなかった。

この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのでしょうか?
やはり秘密がありそうです。
秀吉との間では子ができなかったが、別の男性との間ならば、子を産めた女性が少なくとも数人は
確認できるということです。

家」の維持を重んじて行われたダンナ公認の浮気
かつての日本では、あったらしいですて稀ではなく、いってみればダンナ公認というわけですね。
神社や寺のお祭りなので、神様仏様、つまり社会の公認でもありました。
その際に、重要なのは、驚くべきことに複数と交わることといううのが聞いたことがあります。
旦那が誰かわからないというようなことです。

秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、
茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされないということです

淀君は、こうしたイベントにより、2度、(表向きは)秀吉の子を産んでいます。

朝鮮出兵のとき淀君が秀吉に内緒で祈祷を・・・
1回目は秀吉公認でした。城内のお堂で、たくさんの男たちと淀殿がナゾの祈祷をしていており、
そこが受胎の場だと考えられています。が、この時、生まれた男の子「鶴松」はすぐに死んでしまいました。
秀吉は、これでもう実子は諦めて、養子を育てようと決めました。関白秀次です。
ところが、朝鮮出兵のため九州へ行っているうちに、淀殿は勝手に「祈祷」をしてしまったのではないでしょうか?
またもやご懐妊してしまったのです。
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これに関連した人たちが母子面会のひと月半後からは悲惨なばかりが続く。
秀吉留守中に起きた不祥事に関して、唱門師(陰陽師)が追放された。
これがこの先、数年に及ぶ唱門師大弾圧の始まりである。
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(粛清された*注)女たちは大坂城内の全員ではない。「若公ノ御袋家中女房衆」すなわち淀殿周辺にいる女房らだと明記している。
唱門師追放の翌日からは淀殿付き女房の処刑が開始された。(服部前掲書)
"
懐妊後、秀吉は淀殿の側近や「祈祷」にかかわったとみられる陰陽師らを徹底的に殺戮してしまいました。7
一晩(あるいは数晩?)の営みのために、この世から消されてしまったということです。
秀吉は体が小さかったが秀頼は京都で家康と対面したときかなりの大男で男前だった
ということです。秀吉の体系とは全然違うようです。家康はかなりりっぱな成人男性だっため
徳川家の将来を考え豊臣家を滅亡させなければいけないと思ったことでしょう。

歴史家などは秀吉が九州に行っているときに授かったということでこの時大阪城にそれらしき人物は
大野治長が丁度残っていたらしいので、この治長が父親ではないかという話が最近は多いような
気がします。
このころ確かに秀吉は晩年でもうよぼよぼではなかったでしょうか?
もう子作りは無理ですよね!








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タグ:秀頼 父親
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